和紙によ る保存処理とベトナムの忍者

 当初、この発掘で は骨が出土するとは予想されていなかったのです。ベトナム考古学院のグエン・キム・ズン先生に「これは骨ですか?」と声をかけられて、のぞき込んだ発掘区 には、土色に変色し、あと少しで土壌になる程に朽ちた骨がありました。びっくりして舐めるように観察してみると、ますます明らかに骨です。「これは哺乳類 の骨ですね」と、所見を述べると、「トミ(私の愛称)は骨が 専門ですね。はやいこと取り上げてください」と、にこやかにおっしゃる。それを聞いて思わず凍り付いてしまいました。「はやく??取り上げる??」。事前 にこのような出土状況を聞いていれば、ハノイで万全の準備も 考えたでしょうが、私が現場に来てからはじめて骨が出土したのです。出土するのは土器や石器ばかりという事前の説明を鵜呑みにし、大都会を離れた今となっ ては、道具と補強材料は自作と代用品でやりくりせねばなりません。宿舎の農家に戻り、自分のリュックから全てのものを引っ張り出して保存処理に使えるも のを用意しはじめました。
 幸い、アクリル樹脂は2種類、十分な量を用意して持ってきていました。この種の樹脂は弱い土器や石材の補強にも利用できるものなので、おみやげ代わりに 準備していたのです。(樹脂以外の薬剤でこのような遺物を補強することも広く行われていて、樹脂による補強を避ける専門家もいらっしゃいます。樹脂が万能 でないことは覚えておいてください。)また、実測用具も準備していたのでクリーニングに必要な針状道具は、デバイダー で代用できる見込みがつきました。電工用ナイフと十徳ナイフ、アートカッターも持ってきていたので資料検出とクリーニングの利器はどうにかなることがわか りました。ベトナムは竹の国ですから、それ以外の道具も自作すれば、かなりの作業はカバーできそうです(この後に思い知ったのですが、ベトナムの農村の方 々は手先が器用で、センスも良く、竹べらや竹串のような発掘に役立つ道具を短時間で自作するのに長けていました)。
 問題は固めて取り上げる補強として有効な和紙の代用品です。代用にするにしても、手元にあるティッシュペーパーや綿を使えば必要以上に資料に張 り付き、一つずつの繊維の腰が弱いので切れやすくてはがしにくく、後のクリーニングで除去が困難なのは明らかです。布類では逆に腰が強すぎて資料をいため かねませんし、樹脂を含んで処理対象への浸潤を助ける量も、さして多くない質のものしか見つかりません。荷物に入れておいたレンズクリーニング用の薄紙は 品質的には使えるのですが、出土した骨格が径15cm 程もあるのに対し、用意した薄紙は手札の倍程度の大きさが20枚程しかなく、継ぎ足していくにも限界があるのが明らかでした。
 ベトナムをはじめて訪れた私は、当初楽観的でした。ベトナムも昔は漢字文化圏ですから、必ずや墨筆に使用する画仙紙(半紙類)があって良いはずです。香 港の学生さんにお願いして通訳してもらい、和紙のような伝統的な紙が手に入らないのか、宿の御主人に 聞いてみました。予想に反して、まず伝統的な紙についての話が御主人になかなか理解してもらえません。いろいろと言いかえてもらっても、近くの市場でもそ んな珍しい物資は手に入らないとのこと。そのお宅にある紙をみせてもらいましたが、質の悪い洋紙しかありませんでした。悩んでうなっている所に、先ほどの 先生がいらっしゃって、相談に乗ってくれました。その時先生は何かを思いついたようで、宿の御主人と話し込んだ後、楽観的な口調で「No problem!」とおっしゃいました。
VIETNAM
 さて、夕方、現場で骨の処理に悪戦苦闘していた所に届けられたものは、明らかに手漉き とわかる紙でした。深く悩んだだけに、希望した通りの素材が入手できてうれしくなった私は、それを持ってきてくれた大学の先生と握手までしてよろこんでし まいました。人が良いベトナムの方々は、そんな喜びの絶頂に達した私を見て、それがトイレットペーパーだと言う機会を逃してしまったそうです。その紙は本 来何なのか、質問しても先生は「伝統的な紙だよ」としか言いません。ともあれ、作業に適した紙は大活躍し、めでたく骨の取り上げに成功しました。その日の 夕食後、タンさん(大学の先輩で、香港中文大学の先生。この発掘の責任者のひとり。)より、この紙の由来についての微妙なニュアンスがあかされた時、焼酎 に似たお酒を飲んでいた場は盛り上がり、私も含めて全員が大いに笑いました。
 つまり、私が発掘で取り上げた愛しくも脆い骨格資料は、当初人間のお尻を拭くために生産された紙にくるまれて、遺跡という産屋を巣立ったわけ です。ベトナムの伝統的なトイレットペーパーは適度な強度があり、そのままでは決してお尻にやさしい感触ではないのですが、手で揉むと、お尻にも骨格 資料にも程よい柔軟性が得られるこのです。これこそ保存処理の紙として申し分ない素質です。
 さて、取り上げて宿舎に持って帰った骨格には、持ち上げる行為に耐えられる十分な強度が得られなかったため、トイレットペーパー包みにした上に、さらに トイレットペーパーを重ね、重ね重 ね樹脂の含浸処理を繰り返すことにしました。何度も何度もトイレットペーパーに薬品(樹脂)をかけて大事そうに扱う日本人を、宿に来た少年少女達は不思議 そうに 眺めていました。その様子が魔法の水でもかける様に思ったのか、トイレットペーパーに呪文をかけているように見えたのでしょうか。翌日「ニンジャ、ニン ジャ」と笑いながら声をかけられました。自宅に帰ってからも変わった日本人が話題にされ、年長の家族から教えられたのでしょうか。いずれにせよ「忍者」が ベトナムの家庭の語彙に含まれているのには驚きました。
子 供達は忍者が不思議な術を使うことを理解していました。ベトナムでは一体どんな「忍者」が伝えられているのでしょう。
 おかげで、その後ベトナム人研究者と日本の伝統和紙についてベトナムとの比較にお話にはながさきました。日本でコウゾと呼ぶ植物があちらで「ケイゾ」と 呼ばれているのを教えてもらったのも、こんな保存処理技術がきっかけでした。

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