貝塚研究略史
 環境考古学の萌芽的研究はGlyn Daniel(1975)に詳しい。環境考古学の研究は、考古学が社会復元を取り組むにあたって、その最も重要な条件である自然環境とそれを背景に営まれ た採集・狩猟・農耕・牧畜といった生業に対し、有効な情報を与えるアプローチとして進められた。つまり、考古学が遺物学を脱却し、集落論、社会論を論じら れるようになった段階で、萌芽的研究から実証性の高い研究に歩みを進めた。
 遺跡から環境を復元し、人類の過去を追求するという種類の研究−環境考古学の萌芽的研究−は、環境遺物の集積として最も顕著な遺跡−貝塚−について試み られた。貝塚は、多くの遺跡の中でも環境遺物の包含量の極めて多い遺跡でありながら、当初は詳細な調査がなされず、自然貝層との違い等は十分になされな かったわけである。
 19世紀中葉頃のデンマークの研究者ジョゼフ・スティントルップ(Steenstrup)によるメイゴール貝塚の調査(1836年)やLardner  Vanuxemによるアメリカ大西洋岸沿いの貝塚の調査の報告(Vanuxem1843)にその萌芽がみられる。彼らによって「貝塚人工説」が提出された のである。
 貝塚が巨人によって作り上げられたものとする神話・伝説に対して、貝塚の内容物を科学的に検討したスティンストルップは、自然貝層か台所のゴミ捨て場か を論じ、(1)自然状態では共存しない4種類の貝類の出土.(2)成長した貝類ばかりであること.(3)貝層中に遺物が含まれること.を論じ、考古資料 (遺跡・遺構・遺物)の資料批判を通して貝塚遺跡が古代の漁民 の遺跡であることを示したのである。
 貝塚研究のこのような動向を学習し、日本で応用を図った若き野心家の動物学者がエドワード・シルベスター・モースである。彼は、ヨーロッパとアメリカで の研究を意欲的に採り入れ、師事したルイス・アガシと異なる学説−進化論−の視座から分析を実施したのである。
 貝塚についての知見は、モースの研究以降、大幅な進展がみられた。貝塚は人間が捕食した貝類の殻を主体とした遺跡・遺構で、他の食料残滓、人工遺物を包 含していることが通例である。日本では縄文時代の貝塚が最も有名であるが、先史時代から現代に至るまで様々な特性を持った貝塚の存在が知られている。縄文 時代の貝塚は、人間や動物の遺体や遺物類の意図的な埋納がみられるので、単なる「ゴミ捨て場」ではなく、再生を願って遺物を集積する「送り場」であったと 考えられている。
 分類には、主体貝類の生息水質によるもの(外海系・内湾系・淡水系、あるいは鹹水性・汽水性・淡水性)や主体貝類の生息地の底質によるもの(岩礁性・砂 底性・泥底性)、貝塚の規模や平面プランと位置によるもの(馬蹄形貝塚、環状貝塚、地点貝塚、斜面貝塚)があげられる。
 貝塚の土壌は、貝殻の炭酸カルシウムの影響でpH8程度の弱アルカリ性の場合が多い。日本に広く分布する酸性土壌中では、カルシウムを主体とする貝殻や 骨格は崩壊しやすいが、貝塚の弱アルカリ性の土壌では良好に保存される。つまり、日本において貝塚は、通常残りにくい脆弱な資料が残される貴重な遺跡なの である。そのため、キセルガイやマイワシ、ドジョウのような小型で脆弱な動物遺存体までもが検出されることがあり、内容物の分析には慎重な水洗作業と実体 顕微鏡下での選別作業が必要である。
 日本では、北海道から沖縄までほぼ全国にわたって貝塚がみられ、縄文時代から中・近世に至る長い期間にその形成がみられる。なかでも、潮汐の干満の差が 大きく貝類の生産量が高い太平洋岸周辺に巨大な貝塚が多く分布する。なかでも、仙台湾・東京湾・渥美湾・瀬戸内海・有明海沿岸に、縄文時代の貝塚が集中し てみられる。当時の海岸、湖沼、河川の側に形成されている場合が多いが、貝類の採集地域よりも数十kmも離れた場所や山頂付近に形成される場合もある。
 貝塚では上下層の区分や攪乱の峻別が容易であることから、日本では人骨や遺物の研究を目的として1910年代前後より盛んに発掘された。さらに1970 年代以降、貝塚に包含された動物遺存体の種類や年齢形質の分析によって、貝層の堆積季節や堆積速度、消費量や栄養内容を復元する分析などが試みられ、自然 科学を利用した分析が盛んになっている。

環境考古学研究室: 岡山理科大学総合情報学部 生物地球システム学科 富岡研究室
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