植物考古学の問題ー岡山県 の事例ー
 晴天に恵まれ、深山に源を発する大・中河川が注ぎこむ沿岸平野にあって、植物は豊かに実りを結ぶ。瀬戸内海性気候の特徴を活かし、この地域で 植物利用が進むのは当然のことだったといえよう。縄文人の植物の利用は多様で、多種類を異なった季節に利用していたことが特徴とされる。近年の考古学研究 の進展によって、縄文人が利用したと考えられる植物の種類は増加しつつあるが、中には野生での生育が困難なものも含まれることから、一部については栽培的 手法をおこない管理して利用・消費していたと考えられる。

 稲や穀類農耕痕跡の総合的分析が模索されつつある。分析項目としてはプラントオパール・花粉・炭化米・籾圧痕・花粉胞子等が挙げられる。これ らの分析結果を検証するために、植物遺存体の繁殖力に影響を与える土壌pHデータの抽出がて有効であると考えられる。プラントオパールは酸やアルカリに対 し耐性が強いが、花粉はアルカリに対して弱く、胞子は強い。アルカリ質の強い貝塚や低湿地土壌の一部でシダ類等の胞子が多いという所見は、このような特性 が影響している可能性がある(富岡1999g)。つまり、花粉・胞子類の解釈には、土壌pHデータが備わっていた方が検討しやすいということになる。ま た、岡山平野では粘質が高い堆積層程、花粉の検出状況−質・量とも−が良好であるとの所見もある
 縄文時代には現在の栽培品種と異なるクリ、ブドウ、モモやイネ、ムギ類等がある程度管理され利用されていた可能性が指摘されるが、その詳細な 様相は瀬戸内では明かではない。先述の左古谷遺跡ではフローテイション作業の結果中世のコメが検出されているが、分析に提供された3粒がDNA分析に供さ れ、うち1粒が熱帯ジャポニカ品種かそれに類する品種との所見が得られている(佐藤、ジェネテック2001)。今後数多くの遺跡でこのような穀類が検出さ れ、その多様な情報が抽出されると、より一層植物利用文化の時代的変化が立体的に把握できるようになるであろう。

 また、これ以外の植物についても、繁殖の様相や管理的利用の可能性を追求する姿勢は重要である。岡山県域では縄文時代には沿岸平野から低山地 部には照葉樹系・広葉樹系の樹木が混在し、現在はみられないような落葉広葉樹のトチやクルミも利用されていたことが知られている。これが種実や一部の木質 のみ遠隔地から運ばれてきたものか、近隣に自生していたものか不明である。さらに照葉樹のイチイガシは南方前池遺跡(岡山県山陽町、縄文時代晩期)の貯蔵 穴から多量に出土し、盛んに利用されていたことがうかがわれる。それ以外にもドングリ類では落葉広葉樹のコナラ、照葉樹のアラカシ、アカガシなども利用さ れていた。津島岡大遺跡(岡山市津島、縄文中・後・晩期〜近世)の縄文時代後期の貯蔵穴からはアラカシの実、同時期の河川跡からはコナラの自然木が16 点、アカガシの自然木が2点出土している(土井他 1995、能城 1995)。

 現在、考古科学研究の進展の結果、大陸のいくつかの地域で旧石器時代終末期前後に、植物の管理や栽培が行われていたことが明らかになってい る。縄文人の高度な植物利用・栽培活動などといった行為の技術水準は、世界的にみればさほど突出したものではないといえよう。

 植物遺存体は動物遺存体と同様、その形質・形状のみで数万年程度の短期間の年代推定に利用することは困難である場合が多い。沖積層の生成も複 雑なプロセスで成り立つことがあり、遺構のような人為的な層位を区分する方法と異なった検出技術・解釈理論が必要である。これを軽視することは、「旧石器 遺跡捏造」問題での遺構誤認の問題に通底する。

 また、層位に植物質資料を帰属させたとて、それが二次的な堆積物かどうかは極めて微妙である。良好な資料−特に種実のように一年以内の短期間 に形成される部分−を利用し放射性炭素分析を実施し資料群の年代推定を実施しておく方が望ましいであろう。

 津島遺跡群は、瀬戸内でも長期間の環境の変遷が追える貴重なものである。約6000年前の縄文時代前期には岡山市津島周辺には旧児島湾や干潟 が広がっていたと考えられる。この津島遺跡群の東北部に朝寝鼻貝塚(岡山市津島東、縄文時代前・後期:富岡1998b)は位置している。この朝寝鼻貝塚は 縄文海進の高海面期に前後する約6000年前の土壌について実施されたプラントオパール分析の結果、イネやコムギを栽培していた可能性がある遺跡として脚 光を浴びた(高橋2001)。現在までの調査では、焚き火跡の可能性のある炭化物集中や土器破片や石器およびその未製品や破片の集合等が検出されたのみ で、栽培に関わる明確な遺構は検出されていない。さらに懐疑論も提出されており、慎重的かつ複合的な分析の上での議論が望まれる。

 津島周辺では、多くの発掘がなされ、多くの地点で花粉や植物遺存体の分析が実施され、環境利用の変化が把握されるようになっている(パリノ・サーヴェイ 株式会社 1999)。縄 文時代晩期から弥生時代前期にかけて、ヨシなどが繁茂する富栄養化が進んでいない沼沢地を開墾し水田が形成された。時代が降って中世となると施肥などに よって富栄養化が進んだ水田がみられるようになるが、弥生時代から古代の初期の水田経営は中世以降でのそれと様相を大きく異にしているのである。

 このように弥生時代に開墾された沿岸平野は、縄文時代早期〜前期初頭には海や干潟が広がっていたような場所も含まれている。縄文時代前期の朝 寝鼻貝塚は干潟や沖積低地に突出した場所で、付近に稲作が行われた農地があった可能性があるが、造成や宅地化によって表面からの観察は困難で、現在周辺の 調査によってもこれを検出することに成功していない。

 縄文時代前期〜後期の植物栽培は沢沿いや水の豊富な微高地を利用し、水利的には比較的簡単な技術が行われたのみであったと考えられ、縄文時代 晩期から弥生時代前期にかけての灌漑施設を伴う水田とは異なっていたものといえる。縄文時代前期〜後期にかけて環境を大きく改変して形成された耕地が明確 になった例はほとんどない。少ない例として、北海道千歳市美々貝塚北遺跡(縄文時代前期)での畑状遺構が挙げられるが、明確な農地としての証拠が十分に示 されたとは言い難い。

 緊急調査で縄文遺跡が丘陵ごと、あるいは小地域ごと全面発掘されても、農地らしい景観・痕跡は−完成された農地を見慣れた−現代人の目では発 見されにくいのかもしれない。ほとんど農地に地形改変を加えず、水利灌漑施設も作らない土地管理が縄文栽培の特質であった可能性も考えられる。この点から も縄文農耕の実証的研究は、植物遺存体(種子、花粉、胞子、木材など)と石器、木製品(掘り棒などの簡単な土掘り具も含む)などの農具の研究が全体をリー ドせざるを得ない状況にある。しかし、この農地分析の遅れが全体の研究の進展を阻んでいるとも捉えられ、考古学者としては手をこまねいて静観しているわけ にはいかない。さまざまな考古科学の手法を取り入れ多角的研究に取り組むことこそが現在望まれているのである。

 この視点からすると、入り組んだ丘陵地形によって大河川の侵食活動から守られ、沖積層下に眠っている縄文時代早・前期の遺跡の多角的調査が重 要と考えられる。このようなフィールドとしても瀬戸内の沿岸平野部の遺跡は重要であり、全国的に注目されるものである。

参考文献
パリノ・サーヴェイ株式会社 1999 「付載3 津島遺跡の古環境復元」『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告137 津島遺跡1 岡山県総合グラウンド第一次確認調査』 (岡山県教育委員会) pp.77〜96

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