−蟲之囈言−
 蟲之囈言は蟲に憑依された愚人のぼやきである。ぼやきであるから取留めがない。何を云ふやら當人にも見當がつかぬ。出來るだけ正字正假名を用ゐろ−と内なる蟲が囁くが、普段は仕事上已むを得ず戰後の新字(略字、俗字)と新假名を用ゐて居る故、また日本語入力ソフトや手元のPCが扱へる字體の問題もある故、表記に搖れがあつたり闊痰ェあつたりするやも知れぬ。請御容赦。

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空罐
正字正假名を使ふ
    〃   (貳)
假名遣

出版社への願ひ
言葉は思考の礎

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空罐
 隨分前の事だが古稀を越えた婦人に、一體何を考へて居るのでせうね近頃の若い人達は、と問はれた事がある。朝刊かTVで未成年の呆れる樣な幼稚な事件が報道された折の樣に憶えて居る。其の人が、非常識に振舞ふ若者の多さを日常感じて居たからでもあらう。最近は一層酷くなつてゐるので、今頃は屹度開いた口が塞がらなくて困つてゐるに違ひない。愚輩は斯う答へた−何も考へてゐやしません。頭は空つぽ、腦味噌なんかないんですから。空のブリキ罐が風に吹かれて轉がつて誰かが怪我をしたとして、惡い事をしたと其のブリキ罐が反省しますか−。

 勿論空つぽなのは思考する部分であつて、頭全部が空なのではない。其の方が寧ろ良い位だが殘念な事にすかすかの腦内を不機嫌と慾望の塊がふはふはと漂つてゐる。思考の空白部分を何とかして埋めて貰ひ不機嫌の風船を萎めて貰はねば周りの者が迷惑で叶はぬ。道を歩けば向ふから歩いてくる。買ひ物に行けば店内にうぢやうぢやとゐる。斯う云ふ輩から幾ら遠離らうとした處で其處此處にゐるのだからさうも行かぬ。厄介だ。

 先頃、道端で落葉掻きをしてゐた人と立話をした。其の人の家は小山の麓にある。其の小山に高校があるので大勢の高校生が目の前の路を通る。彼等の態度が惡い。聲高に話す。煙草を吸ふ。塵芥を平氣で捨て吸殼を抛つ。冬場の乾燥期には物騷だから其家の主人も落葉掻きを怠らぬ。一度注意をしようかと思つたらしいが或る人の忠告を聞いて止めたと云ふ。忠告して呉れたのは警察官だ。逆恨みを受けて何をされるか判らぬから止めて置きなさいと云はれたのだ。十人中六、七人は小刀を持つてゐるからとも云はれてゐる。勿論小刀を持つてゐる者皆が危險人物ではあるまい。だが警察官が一般人に對して斯かる注意を與へるのだ。丸で逆である。世の中を良くするのは難しい。

 驛中にある一寸した休憩處で喉を潤して居た。若い父親と七、八歳位の男の子が來て丸椅子に坐る。此の子がきちんと坐れない。膝を曲げて泥靴を椅子の上に乘せる。父親は何も言はずに己の茶を飮む。愚輩も一昔前なら輕く聲を掛けたかも知れぬが、當日は連もあつたし目出度い日でもあつたしするので躊躇つて注意しそびれた。別の日。通ひの齒醫者の待合に男子高校生がゐた。普段見ぬ顏である。これが先の幼兒竝の坐り方をする。呆れてゐたら傍に年輩の女が寄つて來て何やら話す。どうも母親らしい。くにゃくにゃした姿勢と不作法な態度を窘める樣子はない。此等の親子は、椅子は腰掛ける物で床では無いと云ふ事すら理解出來てゐないと見える。さう云へば昨今矢鱈と地べたに坐込む若者を其處此處で見掛けるが、此も只單に體力が無い許りでは無いのかも知れぬ。地面と椅子の區別がつかぬに違ひない。だが汚れると云ふ意識は無いのか。不思議である。

 扨扨、身勝手が大手を振つて闊歩する昨今では餘りにも當り前の事−他者の存在を意識に上す事−を強調せねばならなくなつた。其の思ひは年々強くなつて弱まる事がない。併し空罐に其を説いても虚しい。下手をすると跳返つて此方が怪我をする。如何したら好いものか。ふむ。思考を司るのは言葉であるから何よりも此處は皆の協力を仰いで、ブリキ罐に喞筒で靜に言葉を注込むに如くは無い。だが加減が難しい。

2007年3月下旬 記

正字正假名を使ふ (壹)
 新字新假名の戰後ヘ育を受けた愚輩は、幼少の頃學校で習ふのと違ふ親の文字遣ひに問を發した事がある。然し乍ら、自らの學んで來た新字新假名に疑の目を向け、戰後の國語改革が「稀代な、闊痰ツた、愚かな政策である」と腹立たしく感じたのは中學の時である。爾來、正假名遣に慣れ樣とし正字を憶えようとして來た。正字正假名の方が筋が通つてゐるし字の意味や語の仕組が良く解つたからである。

 學校の國語ヘ科書には今でもさうだが幾つも有名な小説やら戲曲やらが載つてゐる。載つてはゐるが一部分なので當然作品全體を通して讀みたくなる。ところで、我が家には筑摩書房の現代日本文學全集があつた。そこで一册取り出して讀んで見た。すると多くの文字が學校で習つたのと違ひ、少し畫數が多く複雜で有る。假名遣も違つて居る。さう云へば、戰前と戰後で漢字の字體が變り假名遣が變つたと昔親から聞いた。それから四五年は經つてゐたが、長じての思ひは流石に幼少の頃とは異つていた。胸に湧いたのは憤りの感情である。

 本を讀みながら一々「この字は何と讀むのか」と親に訊くのは情けないが、辭書を引くより餘程速いのでよく訊いた。誠に親は有難い。暫くすると字の讀みだけは憶えて速くなつたので、字を知らぬ己への怒は次第に收まつた。字面への違和感を覺えたのも僅かの閧ナある。腹立たしさの因は、少し訓練すれば讀める樣になるのに國が字體を變へ假名遣を變へた、と云ふ事にあつた。そして「正字は畫數が多く複雜だから一般庶民には憶えられまい。假名遣にしても、發音と異る假名遣の語が多いのだから一々憶えられまい。だから簡便にしてやつたのだ」と云ふ聲が聞えたのである。

 莫迦にされたものだ。だがヘ科書は無論の事、身の回りの雜誌や新聞紙も全て正字を廢し正假名を廢してゐた。普通に學校ヘ育を受け、世闊齡ハに流布する新聞雜誌を讀んで育つ多くの仲闥Bは、新字新假名に慣らされてしまひ筑摩の文學全集の樣なものを讀まうとはしない。然し新しい作品は初めから新字新假名だし昔の作品は新字新假名に變へて出版するのだからそれで良いのではないか、と云ふ聲が聞える。果してさうか。否、此は文化をどう捉へるかの問題である。昔から連綿と續いて來た言葉の傳統が或る時點で強權をもつて斷ち切られた。吾が心に沸いたのは其の理不盡さを怒り恥ぢる心情であつた。

 明治になつてから歐米信仰が甚しくなり、漢字を廢さうと云ふ動が起り、「かなのくわい」やら羅馬字會やらが活發な活動をし、さう云ふものの影響を受け敗戰の混亂に乘じて國語改革が斷行された。愚かしや愚かしや。この邊の事情は多くの國語改革批判の書[*]に詳しく述べられてゐるし、其の中で新字新假名が文化破壞の愚策である事は論破されてゐる。ここには愚輩が正字を知つて初めて闊痰ヘなくなつた字の例を一つ擧げて置かう。「専」の頭には點がないが、同じ格好の「博」や「縛」には點がある。どの字に點がありどの字に無いのか憶え難かつたのだが、「専」が「專」の簡略體である事を知り、點がある方は「甫」から來てゐる事を知つてから闊痰ヘなくなつた。其れからは當然「恵」も「惠」と書く。

 また「文藝」「學藝」「藝術」と云ふ言葉の「藝」が新字では「芸」と書かれるが、これも芸の字が全く違ふ意味の別字である事を知つてから藝の位置に納まる芸と云ふ字を見るのが嫌になつた。それに「秘」の字が不可ない。正しくは「祕」。「~祕」と云ふ言葉が示す樣に「~」と「祕」は同系統の字である。禾偏の「秘」は昔から俗字として使はれてはゐたが、戰後態々闊痰ツた字の方を採用した。譯が解らぬ。酷いものだ。

[*, sc恆存『私の國語教室』、『國語問題論爭史』;丸谷才一他『国語改革を批判する』等]
2006年12月上旬 記

正字正假名を使ふ (貳)
 學生時代は講義の記録や覺書等では出來るだけ正字と正假名を用ゐてゐた。其の事で父母や祖父母の時代と繋がつてゐる思ひがしたし、更には大正や明治を越えて徒然草やら方丈記やらの世界とも辛うじて繋がつてゐる樣な氣もした。「歸、變、當、專、發、讀」等の字を書くのにも直ぐに慣れ、普通の人閧ネら少し手閧掛ければ書ける樣になるのに − いや抑も初めからヘへてゐればそれで濟む筈だらうに − と政府の愚斷が全く腑に落ちなかつた。餘程過去 − 日本文化 − と訣別したかつたものと見える。

 道理を辨へた人達は新字新假名が齎すであらう悲慘な行末に就いて、改惡當時口が酸くなる程述べ立ててゐた。寔に彼等は慧眼の士である。然し若い頃の自分は、世閧フ言語状況に就いて今程腹立たしい思ひはなかつた。岩波文庫等は、明治、大正、昭和初期の作品を發表された當時の表記である正字正假名で出版してゐたし、現代作品が新字新假名で書かれ樣が其れは其れと思へた。だが最近は慘めである。どんどん組版を新しくし、讀み易くする爲にと稱して新字新假名に改めてゐる。國語改惡に反對した作家の作品を恥づかし氣もなく醜惡な字體に變へて賣つてゐる。近代文學でさへ發表當時の表記で讀まうとしても手輕には行かなくなつたのである。もう普通の本屋で近代文學作品を求める事は不可能となつた。愚輩が今本屋で買ふのは現代人が書いた本だけである。昭和初期以前の著者が書いた本は古書店で購ふしかない。嘆かはしいと云ふより哀しくてならぬ。

 出版社は自らを「文化に貢獻する存在である」と自負してゐるであらうに、どうして此程迄に傳統を疎かにするのか。文化は過去の繼承、傳統の裡にある。歴史を持たず同時代人にしか受け容れられぬ物では薄つぺらで文化の名に値すまい。然し出版社の中には、時に昔日の名著を復刻出版する處がある。日本近代文學の名著複刻全集などは寔に有難い。然し此も昔の事となつたし、初版本を出來るだけ忠實に寫眞製版したものであるから、誤字脱字其の他の誤も其の儘である。それに斯う云ふ本は特別なもの故に値が張るのが難點だ。此の樣な企畫は嬉しいのだが、一市井人としてはきちんと校正され活字印刷された普通のものが欲しくなる。只單に誤記訂正したものを初めの體裁の儘で出してくれぬものか。

 さて愚輩が正字と正假名を用ゐるのは、勿論理屈の上で筋が通つてゐるからではあるが、何よりも自身の感覺の問題であり美意識の問題である。さうなつた發端が抑も莫迦にされた樣に感じた事、其への怒である。讀む方は尚更で、新字(略字俗字)だらけの現代の文章を見るよりも昔の本を讀む方が落ち着くし安らぐのである。此の安らぎは、惟ふに自分が過去の日本と繋がつて居ると云ふ安心感であらう。洵に言葉は文化也。愚輩としては其の事に氣附いて呉れる人が揩ヲるのを只管願ふ許りである。そして心中竊かに、何故多くの人はこんなに莫迦にされてゐて其の事に氣附かないのか、寧ろ爲を思つて呉れてゐると勘違ひするのか、何故此程迄に御上に對して柔順なのかと思ふのである。

2006年12月中旬 記

假名遣
 正字正假名(新字新假名)は對で論じられる事が多いが當然別の事である。作家の丸谷才一氏は正假名を用ゐるが漢字は現代風である。一讀の印象は其れ程一般作家の其れと變らず字面が變化した樣には見えぬ。正假名遣の文章を眼にする現代人の多くは、「言ふ、ゐる」の樣な假名遣を見れば變な昔風の書き方だと思ふだらうが、大人であれば正しく讀めぬ譯ではない。大抵闊痰ヘず讀む。それに「地面、布地」の樣な語が「ぢめん、ぬのぢ」の樣に新假名遣では闊痰ニされる表記で書かれてゐるのを世の中で目にする事も多い。新假名遣は多くの例外を作る事で譯の解らぬものになつてゐるのだから仕方がない。

 正假名遣の文や言葉を意外な處で見掛ける事がある。昔の歌謠曲を往年の歌手に歌はせる某TV局の番組では、歌手の歌聲に併せて正假名の歌詞が畫面上を流れてゐた。其の歌詞が元々正假名で書かれた物だつたからには違ひないが、さう云ふ事は今でもあるのである。室に掛けてゐる二千七年の暦は風景に宮澤賢治の詩を配して居るが、この詩は新假名では無く賢治の假名遣で書いてある。さうしてあるのは詩だからであつて、童話の文章なら新假名に變へられてゐたかも知れぬ。しかし、普通の人なら新假名で無くとも讀めるのだ、とTV局の人や暦の制作者が考へてゐる事の證ではあらう。

 新假名遣は書き言葉の表記を現代話し言葉の發音に出來るだけ近付け樣としてゐる。さう云ふ考は日本語の音韻特性から出て來るのだと思はれる。日本語の發音單位は歐米ゥ語に較べれば桁違ひに少ない。金田一春彦氏の勘定では百十二らしい。そして此の發音を、少し工夫すれば − 殊に拗音や促音 − 全て假名で表はす事が出來る。假名文字は四十八しかないが、濁點半濁點その他の組合せで全表記が可能となる。つまり極簡單な發音記號(擬ひの物)として扱へるのだ。英佛語の發音と羅馬字との關係を一寸思ひ浮べるだけで假名の簡便さが判る。新假名遣の提案者は此の見掛け上の簡便さに惑はされたのであらう。然し此の簡便さは飽く迄も音の表記に限られるし、それも標準發音だけである。

 語表記を發音其の儘に行ふのは、日本語の音韻と假名との關係を以てしても無理と云ふものである。確に「思ふ=おもふ、變へる=かへる」より「おもう、かえる」の方が現代發音に近い。近いが程度問題である。「おもう、かえる」の發音に「は行」音が交る人など幾らも居る。それに、假名が現代共通語の發音を表記する文字ならば、全國各地の方言を假名で表記するのは難しからう。曇つた佛語の樣な東北辯を假名で一體どう表記出來ると云ふのか。表記するには音素を表記し得る文字にョるしかあるまい。それは發音記號に他ならぬ。假名は本當の發音記號ではないのだから無理である。子音を表記出來る羅馬字ですら其んな事は叶はぬ。其れは歐州語の本を讀めば歴然としてゐる。

 新假名遣では「さう云ふ事を言ふな」は「そういうことをいうな」と表記する事になつて居るが、「そおゆうことおゆうな」の方が發音に近い表記であらう。長音記號を用ゐれば「そーゆーことーゆーな」か。流石に此では酷いと思つたらしく、さうは決めなかつたが新假名遣の底流にあるのはさう云ふ思想である。だからこそ學校で幾ら新假名遣をヘへても、斯う云ふ類の闊痰ミをする子供が多いのだし、大人であつても「言ふ(う)、行く」を「ゆう、ゆく」と表記して、此が闊痰ツた假名遣だと氣附かぬ人が居るのである。若者の中には「言ふ(う)」を「ゆー」と表記する者も少なくない。然し、新假名遣の考へ方に據れば發音變化に伴ふ表記變化を認めねばならず、表記法を度々變へねばならなくならう。此では規範が規範にならぬ。假名遣が語の表記法だと云ふ事を無視するから可笑しな事になる。

 日本語を發音通りに假名表記する事など不可能だし、似せ樣とすればするほど語から離れ人には判讀し難いものになる。誰かの發語を差し當たり全て平假名で出來るだけ發音に近付けて書いて見るが良い。何を言つてゐるのか判讀に苦しむ事必定である(方言であれば更に鮮明になる)。言葉をどう表記するかは約束事に他ならぬ。それが正書法正綴法と云ふものである。新假名遣に決定的に缺けてゐるのが此の正書法と云ふ考である。長音や撥音、促音の表記が約束に依る樣に、全ての語表記は約束に依る。ならば、其の約束事=規則は歴史を踏へた筋道の立つたものが望ましい。「水(みづ)」と「見ず」は違ふ言葉であり、此を異つて發音する人は幾らもあるのに共に「みず」とは。それに或語が昔も今も同じ假名文字で表されてゐるからと言つて、必ずしも同じ樣に發音されてゐる譯ではない。此事にも留意す可きであらう。

 假名遣を正しくしようとすれば、初は語を憶えねばならぬ。だが新假名に馴染んだ人であつても、基本さへ抑へれば、幾つかの例外を除いて大抵の言葉は直に表記出來る樣になる。新假名であつても多くの例外をヘへねばならぬし、其の事に筋が通つてゐないのだから、由諮ウしき正假名遣をヘへた方が餘程良からうと思ふ。それに中學高校では古文を當時の假名遣でヘへて居る。正假名への抵抗は案外大きくないのではないかと夢想する時もあるのである。

[參考:鷗外『
假名遣意見』;芥川『文部省の假名遣改定案について』;橋本進吉『表音的假名遣は假名遣にあらず等]

2007年1月中旬 記

出版社への願ひ
 此處數十年の閧クつと思ひ續けて來た事がある。出版社は如何して一度出版した本を其の儘の形で出し續けて呉れないのだらうか。勿論、誤植や誤字脱字の訂正をするなと云ふのではない。矢鱈と新刊本を出さなくて宜いから、此はと云ふ書物を何時迄も出し續けて欲しいと云ふ事である。初版發行時に餘り販賣部數が伸びなかつたからと云つて直に絶版にするのは止して、其の書物の價値を眞に見定めた上で出版を維持して欲しい。近頃頓にその思が強くなつてゐる。

 新聞雜誌に數多の書物の廣告が出る。毎日毎日途方もない量の本が出版されてゐるのであらう。新書本や文庫本の種類も隨分揩ヲた。出版界は盛況に見える。だが一方で、本が餘り賣れぬと云ふ聲を聞く。此は如何云ふ事か。近所の書店を覗く。雜誌の棚が入口近くにあつて週刊誌月刊誌が澤山竝んで居る。奧の棚には漫畫本が一杯ある。新書本文庫本も眼に附く。實用書や學習參考書の棚がある。其の他の本が占めて居る面積は店の二三割程度であらうか。其處にあるのは最近出版されたものが殆どで、一寸昔の本は影が見えぬ。全集の類は見當らぬ。郊外の大型書店に行くと品數は隨分揩ヲる。併し文庫本新書本が大層多い。厚手の本も數は揩ヲるが矢張り全集の類はない。各種類の面積比率は似た樣なものである。書評を讀んで本を搜しに來たがとんと見つからぬ。置かれて居る本の種類から察するに入荷の豫定は無ささうだ。

 知人の話に據ると、本の編輯者は執筆者に−出來るだけ分り易く簡單に書いてくれ−と注文を付けるとの事である。さうでないと讀んで呉れない、賣れないらしいのである。簡單とは如何云ふ事か。最近購つた新書本を開いて見る。昔の物と較べて面積當りの字數が少ない。字闕s閧ェ廣い。漢字が少なく假名が多い。漢語が少なく話し言葉(の樣な書き方)が多い。明るい印象である。本の中には紙を厚くして、頁數が少ないのに厚みを持たせた物もある。頁當りの字數が少なく、一册の頁數が少なければ讀了も速からう。本の體裁の事は扨置き、簡單に書くとは假名を多くして碎けた調子で書く事らしいと窺へる。讀むのに餘り努力を要さぬ。昔の新書本とは確に違ふ。然し簡單で讀み易くないと賣れぬからと云つて、頭を使はなくて濟む樣な本許りが揩ヲて齒應へのある物が減るのは困る。本は單に隙潰しの爲だけにあるのでは無からう。

 最近「御伽草子」中の或る話に就いて幾つか寫本−の寫し−を讀む機會があつた。天保期の物が最も新しく殘は恐らく江戸中期以前の物。書を嗜まぬ身としては崩し字に戸惑ひながらも中々面白く讀む事が出來た。そして前にも況して思つたのである。斯う云ふ物を此の儘の形で普通に書店で購ふ事が出來たら嬉しいのにと。

 愚輩が望むのは次の樣なものである。先づ、初めに元々の形を影印にして載せる。次に此を翻刻するが、此處では異體假名も片假名も其儘の形とし、行當りの字數や頁當りの行數は原本通とする。更に其の次には、異體假名を現行の假名に變へたものを通常の行組頁組で載せる。假名で表はされて居る漢語、地名、人名等は適宜漢字に變へて通常の漢字假名文字混淆文とし、本文の注釋などは此の段階で初めて付ける。必要なら卷末に解説を載せる。解説を含めて全て正字正假名で表記するのは當然である。基本的に三部構成で、斯うすれば種々の讀者に對應出來るであらう。勿論此等を一册とせず、影印本、翻刻本、通常本の分册にするのが良いかも知れぬ。通常本の中で對應する箇所が判る樣にして置きさへすれば翻刻乃至影印の原本を讀むのもさして苦になるまい。此が昔から見て居る夢である。然し文化を重んじ歴史に敬意を拂ふ國ならば、此位の事は何處かの出版社がしてゐても良いのではないか。採算が取れぬのなら斯う云ふ事業をこそ國が保護育成す可きである。研究者が昔の書物や古文書の類を解讀して成果を出版してゐるが、詳しい論考以前に原文乃至解讀した文章其の物を斯う云ふ形で公にして呉れれば、一般人が何時でも原著(の複製)に當る事が出來る。

 勿論昔の歌書、日記、讀本、草紙などの類を今讀む事が出來ぬ譯ではないし、歴史資料の樣な物も上梓されて居る。元本の幾つかは影印本、翻刻本として出版されてもゐる。然し影印本、翻刻本の類は出版部數が少なく版を餘り重ねぬと見えて、一般書店では中々目に入らぬ。昨今は江戸期以前の話處では無い。明治大正期や昭和初期の作家の本ですら當時の儘の形では手に入らない。確に名著と云はれる本の多くは文庫化されてゐる。然し表記が全く違ふ。矢鱈と假名が多く略字だらけである。一體全體元々の形は如何だつたのか判斷が盡きかねる。全く字面の印象が違ひ雰圍氣が崩されて無念でならぬ。其處で繰り返すのだが、出版社は如何して昔の本を其の儘の形で出版し續けて呉れないのだらうか。出版社が潰れたならば他の出版社が引受けて、裝丁活字とも其儘の形で出し續けて欲しい。出版當時の世閧フ雰圍氣を本は寫して居る。江戸や明治の本に限らず、本は其の時代の桙閧感じ乍ら讀みたいのである。

2007年3月彼岸 記

言葉はあらゆる思考の礎
 大學生の學力低下が取沙汰される樣になつて久しい。取分け數學や理科の學力低下が目立ち、これを危惧する書物が數多出版され、彼方此方で議論が沸騰した。今では大學生(若者)の學力低下を認めぬ人は少なからう。數學や理科に限らず全てのヘ科内容は言葉で記述され言葉で説明される。最近多くのヘ師から「言葉が學生に通じぬ」という聲が上がつてゐるが、要は學力低下の根つこに言葉の貧弱さがあると云ふのである。小學校算數でも、計算問題より應用問題の方に弱いと云ふのは正に其れに他ならぬ。問題文を讀み取つて立式する事が苦手なのだ。事は學校のヘ科に止まらぬ。人は言葉を使つて思考する。言葉が貧弱なら貧弱な思考しか出來ないのは分かり切つてゐる。貧弱な言葉−思考−が學力以外の面に影響を與へぬ譯がない。

 人の考えや行動は全て頭(腦)の支配を受けてゐる。若者の學力が低下し、體力が低下し(これも調査結果が示してゐる)、倫理觀が薄れてゐる(周圍を見回せば納得される筈)とすれば、總合的な意味で腦の働が低下したと云はざるを得ぬ。若者の學力低下を憂ふ聲は若者の知能低下を憂ふ聲である。



 2006.11.8(水)、NHKクローズアップ現代は「どうする若者の"日本語力"」と題して現代の若者言葉が貧弱で誤用が目立つ事に警鐘を鳴らした。この番組に限らず、色々な雜誌やTVなどで近頃の若者が使ふ日本語に疑問を投げ掛ける記事や番組を目にする事が多くなつてゐる。


「どうする若者の”日本語力”」 NHKクローズアップ現代 2006.11.8
 冒頭、ある大學生が書いた以下の文章が示された。

 ここ四五日のひえこみで、ていたいしていたさくらぜんせんが、ようやくほくじょうしてきた 今日東京でも、かいかがせんげんされた 作年より 五日おそくれいねんにくらべても二日おくれ、桜のめいしょ上野公園では、ライトアップされた、中にちらほら花が見えるていどだが、花子より男子と気温13゜のさむぞらのもと、早くも、えごうも、もようすグループが見られた

 漢字が殆ど使用されておらず、使はれた簡單な漢字ですら闊痰ツてゐる(作年)。「花子より男子」は「花より團子」に違ひない。團子が男子になつてゐるのは、「花より男子」という漫畫(かTV番組)に影響された所爲であらう。「えごうも、もようす」は恐らく「宴會を催す」。「もよほす(もよおす)」は「もようす」と表記され、文章全體に讀點はあるが句點がない。


 若者の言葉が怪しくなつてゐる − 此の樣な現象が若者に目立つ − としても、其が若者だけの筈がなからうと思ふ。其は社會全體の知力低下、知能低下の反映であらう。以下、新聞、雜誌、TVなどで見聞きする言葉に關して氣になる點を幾つか擧げる。



※「宣傳文句」−  此んな物は日本語ではない、と見聞きする度に不愉快になる宣傳文句の例。
1) 「うれしいを、つぎつぎと。 KIRIN」  キリンビール宣傳文句
2) 「そうだ 京都、行こう。」 JR東海の宣傳文句
3) 「死ぬまで飲ませる」を現実にする奴らがいる。 イッキ飮み防止連絡協議會 2003年度ポスター/チラシ
 夫々、1)相應しからぬ形容詞を用ゐた上に名詞化がなされておらず、2)助詞が缺如し、3)語順がをかしく不適切な語が使用されてゐるのが不快感の因だ。1)に付いては「氣を引く爲に意識的になされた事であらうが、其にしても怪しからぬ」と憤つてゐたのだが、近頃その考へを改めるに至つた。其は、KIRIN以外にも同樣の言葉遣ひの − 形容詞を名詞化せずに名詞使用する − 宣傳文句を屡見掛ける樣になつたからだ。斯う云ふ仕事をする人達の多くが既に美しい語感を失つてゐるのに違ひない。悲慘である。更に肝腎の言葉を扱ふ書物の題名にも怪しげなものが揩ヲて來た。

※「書名」−  著者が違和感を承知の上で人目を引く爲に使用してゐるのであらうとは思ふが、醜い言回しや闊痰ツた語法を目にする事の弊害にこそ目を向けて欲しい。

・「人はなぜ『美しい』がわかるのか」 橋本治、ちくま新書
※「新聞紙の見出し」など−  新聞紙(スポーツ紙の事では無く一般紙)に見られる見出しや記事の文章、言葉の闊痰「も一向に減る氣配を見せぬ。寧ろ好んで誤用を勸めてゐるのではないのか、と思はれる程だ。
{・図書館カモ シカたね  朝日新聞 2008.7.4. 富山・舟橋の圖書館に羚羊が闖入した事を報ず。下卑てゐる上に語呂合せでもない。此處迄新聞人の品性が下落してゐる。  2008.7.4. 追記}
{・CO2「見える化」、水道や交通も 排出権表示、推進へ   朝日新聞 2008.7.2. 經濟欄。この醜惡な用語は一體誰の造語なのか。目を覆いたくなる。
 ・やっぱり すゲイ! 9秒68  朝日新聞 2008.7. 1. スポーツ面 (タイソン・ゲイの史上最速記録[追風參考]記事)下卑た言葉遣ひを其儘認めた上での詰らぬ語呂合せ。この種の輕薄さには辟易する。    2008. 7. 3. 追記}
{・「もっと働く」への選択   朝日新聞 2007.5. 8. 社説見出し(佛大統領選の結果を受けて)    2007.5.21. 追記}
{・「危ない」をすぐ伝えよ   朝日新聞 2007.2.11. 社説見出し    2007.2.12. 追記}
 斯う云ふ物を目にすると、一般社會の知的水準が此處まで低下したかと暗澹たる氣分に陷る。大新聞?の社説なのだ。
・「○○独壇場 初V」  朝日新聞 2006.11.20 スポーツ欄
 これが獨(独)擅場の誤用(土壇場という言葉に引きづられ、また壇上という言葉にも影響されて)であることは屡指摘されてゐる。嘆かはしいと謂はざるを得ぬ。獨舞臺の積りならさう書けばよい。校閲係が居るのか居ないのか、言葉を知らぬ校閲係なら居る意味はなからうに、其ともそれで良しと居直つてゐるのであらうか。朝日新聞社は勝手に妙な漢字擬きを拵へる事といい、言葉を粗雜に扱ふ事で有名な新聞社だが、其にしても言葉に對してもつと謙虚になれぬものか。
・「上限70時閨v  高校必修科目の補習時韈j減措置に關して
 最近(2006年秋)高校生の必修科目習得漏れが問題になつた。此處では事の良し惡しではなく、此を取上げた記事中の或る言葉に觸れて置く。膨大な時閧補習に充てなければならぬ事から、負擔(?)輕減措置として、未履修時閧ェ70時閧超える場合は70時閧フ補習で構はない樣にするらしい、と云ふ事を報じた記事の見出しに使はれたのが上掲の文句だ。言はずもがなだが、上限とは此以上は無いと云ふ事だ。如何考へても、最低此だけは補習せよと云ふ下限だらうに。新聞だけでなく、TVでも使はれてゐた。本當に呆れてしまふ。此が罷り通るのは、人が普段の生活で如何に勉強を嫌つてゐるか、如何に少ない勉強時閧ナ濟まさうかと常に考へてゐるからで、其が學校に通う生徒達だけでなく大人達もだと云ふ事を示してゐるのである。開いた口が塞がらぬ。序に言つておくと、未履修70時閧フ場合は「50時闥度の補習+レポート提出」で良しとするらしい。此が頭にあつて上限70時閧ニいふ言葉で纏めて表現した積りになつたのかも知れぬが、其にしても・・・。
・「を飛ばす」  ・「憮然とした」
 他にも澤山あるが、最近目立つのが激勵の意味で使はれる 「を飛ばす」 である。激など飛ばせる譯がない。本來は「を飛ばす」であり、全く意味が異なる(辭書を引けば直ぐ判る)。この闊痰ツた言回しが廣まつたのは一時期の幕末熱に由來するのではないかと思つてゐるが、其にしても見つとも無い。何故「勵ます」という普通の言葉が使へぬのか。 また 「憮然とした」 という言い回しを「納得いかず、不滿氣な、むすっとした」樣子に充てるのが目立つ。憮然にさう云ふ意味は全くないのだから、此處は「不滿氣な」「不服氣な」「納得いかぬ」「腹立たし氣な」「忿懣やる方無い」などを使つて欲しいものである。



 闊痰ツた言葉が多々使はれるのは、先づ第一に書き手が辭書を引かぬ事にあるのだらう。初めて見る言葉、聽き慣れない言葉に遭遇したら辭書を引けば良い。其だけの事で此んな誤用は激減するに違ひない。誤用の多さは、現代日本人の多くが言葉を話し言葉 −音− としてしか使へなくなつてゐる事を示してゐる。日本語は歐州語の樣な聽覺主體の言語ではない。漢字で多くの言葉を表記する視覺言語だ。その事を忘れたら日本語は滅ぶ。

 不思議でならぬのは、此等の闊痰ツた言葉遣ひが新聞紙上やTVで何度も何度も指摘されてゐるのに、指摘をしたのと同じ新聞、雜誌、TV番組が平然と同じ誤用を繰り返す事だ。人は知らぬ事は幾らでもあるし、闊痰モ事も多い。當然だ。だから假に若い記者が妙な原稿を書いたら直せば濟む。見逃して記事になつたとしても、それ以降氣を付ければよい。然し、同じ社内での誤用が判つてゐるのに如何して過ちを正さうとしないのか。何故是程迄に無頓着なのか。理解に苦しむ。

−學生に向けた文章改− 2006年11月下旬 記

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